「弱気は最大の敵」
この言葉を大切にし、野球人生を歩んだ一人の投手がいました。
広島東洋カープで活躍した、津田恒実さんです。
150キロを超える剛速球を武器に、強打者にも真っ向から勝負を挑む。
その闘志あふれる投球から、ついた異名は「炎のストッパー」。
1980年代のプロ野球を代表する救援投手の一人として、多くのファンに愛されました。
そんな津田さんですが、実は高校時代、気の弱さに悩んでいたことをご存じでしょうか。
練習では素晴らしい球を投げられるのに、試合になると思うように投げられない。
強気の投球で知られるようになった津田さんにも、そんな時代があったのです。
では、気の弱かった少年は、どのようにして「炎のストッパー」になったのでしょうか。
そこには、自分の弱さと向き合い続けた、一人の野球選手の物語がありました。
打者に当てることが怖かった少年
山口県の南陽工業高校で野球に打ち込んでいた津田さん。
当時から、その投手としての才能は際立っていました。
しかし、一つ大きな課題がありました。
それは、気持ちの弱さです。
高校時代の恩師である坂本昌穂さんは、当時の津田さんについて、練習では良い球を投げられるのに、本番になると弱さが出てしまったと振り返っています。
打者にボールを当ててしまうことが怖い。
そのため、打者の内角に投げ込むことができず、四球を出して自滅してしまう。
そんな試合が少なくなかったそうです。
どれほど速い球を投げられても、その力を試合で発揮できなければ勝てません。
坂本さんは、津田さんの気の弱さを責めるのではなく、褒めることを意識して指導していたといいます。
そして、高校2年生の夏。
津田さんに大きな転機が訪れました。
山口大会で、完全試合を達成したのです。
一人の走者も出さずに試合を終える、投手にとって特別な記録です。
この経験をきっかけに、津田さんはエースへと成長していきました。
坂本さんは後年、津田さんが成長できた理由について、本人が自分自身の弱さを受け入れたことが大きかったのではないかと振り返っています。
そして高校3年生になると、津田さんは野球のボールに、ある言葉を書いて持ち歩くようになりました。
「弱気は最大の敵」
自分の弱さを誰よりも知っていた津田さんだからこそ、この言葉が必要だったのかもしれません。
故障を乗り越え、「炎のストッパー」へ
高校卒業後、社会人野球を経て、1982年に広島東洋カープへ入団した津田さん。
プロ1年目から11勝を挙げ、新人王を獲得しました。
気の弱かった少年が、ついにプロ野球の世界でも結果を残したのです。
しかし、その後の野球人生は順風満帆ではありませんでした。
肩の故障や、右手の指の血行障害などに苦しめられます。
思うように投げられない日々。
投手にとって、ボールを投げる身体そのものに問題を抱えることは、深刻な試練だったはずです。
それでも津田さんは、野球を諦めませんでした。
1986年、先発投手から救援投手へ転向。
ここから、津田さんの新たな野球人生が始まります。
試合終盤、わずかなリードを守るためにマウンドへ上がる。
一球の失投が、チームの勝敗を左右する。
そんな重圧のかかる場面で、津田さんは150キロを超える速球を武器に、打者へ立ち向かいました。
この年、22セーブを挙げ、カムバック賞を受賞。
そして、その闘志あふれる投球から、いつしか「炎のストッパー」と呼ばれるようになったのです。
高校時代、打者の内角に投げることを恐れていた少年。
その少年が、今度はプロ野球の強打者たちを相手に、全力でボールを投げ込んでいました。
炎のストッパーも、失敗することが怖かった
ところが、津田さんの物語には、もう一つ知っておきたいエピソードがあります。
「炎のストッパー」と呼ばれるようになってからも、津田さんが失敗や重圧から解放されたわけではありませんでした。
当時、チームメートとして一緒に戦った達川光男さんが、印象深い出来事を振り返っています。
津田さんが救援に失敗した翌日。
誰よりも早く球場に来て、外野席の階段を何度も上り下りしていたそうです。
前日の試合を見に来てくれたファンに申し訳ない。
そんな思いから、厳しい練習を自らに課していました。
また、チームメートの勝利投手になる機会を、自分の救援失敗によって失わせてしまったこともありました。
そのときには、何度も相手の部屋を訪ねて謝っていたといいます。
達川さんは、津田さんから救援投手のつらさについて、弱音を聞かされたこともあったそうです。
そして、心配して津田さんの部屋を訪ねた際、目にした光景。
津田さんは座禅を組み、手には一つの野球ボールを持っていました。
そこに書かれていたのは、
「弱気は最大の敵」
高校時代から大切にしてきた、あの言葉でした。
強気の投球で観客を魅了していた津田さんも、失敗すれば落ち込み、責任を感じ、悩んでいたのです。
それでも翌日には、誰よりも早く球場へ向かう。
このエピソードを知ると、「炎のストッパー」という異名が、少し違って見えてこないでしょうか。
津田さんは、最初から恐怖や不安を感じない人だったわけではありません。
不安を抱えながらも、何度もマウンドへ向かっていたのです。
そして1989年。
津田さんは12勝28セーブを記録し、最優秀救援投手のタイトルを獲得しました。
その活躍の裏には、私たちが試合中には見ることのできなかった、数え切れない努力があったのでしょう。
本当の強さとは、弱さをなくすことなのか
1993年7月20日。
津田恒実さんは、脳腫瘍のため32歳という若さで亡くなりました。
2012年には野球殿堂入りを果たし、その功績は今も語り継がれています。
津田さんが大切にした「弱気は最大の敵」。
この言葉だけを聞くと、弱い気持ちを捨て、常に強くあり続けなければならないという意味にも受け取れます。
しかし、津田さんの人生を振り返ると、少し違った解釈もできるのではないでしょうか。
高校時代には、自分の気の弱さに悩んでいた。
プロになってからも、故障に苦しみ、救援に失敗すれば落ち込んでいた。
決して、弱さとは無縁の人生ではありませんでした。
むしろ津田さんの強さは、自分の弱さを認めるところから始まったのではないでしょうか。
自分は何を怖がっているのか。
何に負けそうになっているのか。
まず、それを認める。
そして、そこで終わらない。
弱さに負けないために練習する。
失敗したら、また球場へ向かう。
そうやって自分の弱さと向き合い続けた先に、「炎のストッパー」と呼ばれる津田さんがいました。
私たちも、新しい仕事に挑戦するときや、大切な決断を迫られたとき、不安になることがあります。
失敗したらどうしよう。
周囲に迷惑をかけたらどうしよう。
そんなとき、無理に「自分は強い」と思い込む必要はないのかもしれません。
まず、自分の弱さを認める。
そして、その弱さに負けないために何ができるのかを考え、行動する。
弱さを認めることと、弱さに負けることは違う。
「弱気は最大の敵」。
この言葉は、弱さを否定するための言葉ではなく、
自分の弱さを知ったうえで、それに負けないために努力する人の言葉なのかもしれません。
以上
「一流の思考ラボ」編集長でした。
参考・出典
- 野球殿堂博物館「津田 恒実」
- NPB.jp 日本野球機構「津田 恒実(広島東洋カープ)個人年度別成績」
- アスリートマガジンWEB「炎のストッパー・カープ津田恒実を支えた『弱気は最大の敵』。高校時代の恩師が明かす飛躍のきっかけ」
- 東スポWEB「【達川光男連載#50】病魔と闘う津田恒実とV旅行へ!選手全員がお守りを忍ばせ試合に臨んだ」
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