3Dプリンターを世界で最初に考えた日本人|小玉秀男の発明が「幻の特許」になった理由

3Dプリンターと聞くと、海外で生まれた最先端技術というイメージを持つ人も多いかもしれません。

しかし、その原点をたどると、一人の日本人に行き着きます。

小玉秀男さん。

1980年、小玉さんは現在の3Dプリンターにつながる「光造形」の技術を考案し、特許を出願しました。

ところが、その発明は大きなビジネスになることなく、特許としての権利も残りませんでした。

そして数年後。

同じ分野の技術がアメリカで実用化され、やがて世界を変えていきます。

なぜ、世界に先駆けた日本人の発明は「幻の特許」になってしまったのでしょうか。

きっかけは「画面の中だけでは分からない」

小玉さんは当時、名古屋市工業研究所に勤務していました。

発想の原点の一つとなったのが、コンピューター上で立体的な設計を行う「3次元CAD」でした。

コンピューターの中では立体的に設計できる。

しかし、それを確認するのは平面の画面です。

「この立体データを、そのまま手に取れる形にできないだろうか」

そんな問題意識を持っていた小玉さんに、大きなヒントを与えたのが、1980年に見学した印刷機械の展示会でした。

そこで目にしたのが、光を当てると固まる特殊な液体(光硬化性樹脂)を使った印刷技術です。

光を当てて、一層を固める。

その上に、また一層を重ねる。

それを何度も繰り返していけば――。

立体物がつくれるのではないか。

まるで薄い紙を何枚も重ねて厚みをつくるように、少しずつ立体をつくっていく。

これが、現在の3Dプリンターにつながる基本的な考え方でした。

1980年、日本で特許が出願された

小玉さんは実験を重ね、光を使って樹脂を一層ずつ固めることで、立体物をつくれることを確認します。

そして1980年4月12日、

「立体図形作成装置」

として日本で特許を出願しました。

3Dプリンターという言葉すら存在しない時代です。

現在の3Dプリンティングにつながる光造形技術について、世界で最も早い時期の発明・特許出願の一つとして、小玉さんの名前は現在も記録されています。

さらに小玉さんは、この技術を論文でも発表しました。

つまり、

アイデアだけではありませんでした。

考え、実験し、形にして、特許まで出願していたのです。

それでも、この発明は小玉さんの特許にはなりませんでした。

なぜ「幻の特許」になったのか

ここが、この話で最も興味深いところです。

小玉さんは特許を「出願していなかった」のではありません。

出願していたのに、最終的な権利化まで進まなかったのです。

当時、この技術の有用性は十分に評価されませんでした。

小玉さん自身も後年、学会や論文で発表しても技術の価値が評価されず、自信を失い、特許を取得する価値まで見失ってしまったと振り返っています。

その結果、特許を取得するために必要な「審査請求」が行われず、特許として成立することはありませんでした。

今から見れば、

「なぜ、そんな重要な特許を手放したのか」

と思ってしまいます。

しかし、まだ世の中に存在しない技術の価値を、発明した瞬間に正しく判断することは簡単ではありません。

未来を知っている私たちだから、その価値が分かる。

当時は、「これが世界を変える技術になる」と誰も確信できなかったのです。

数年後、アメリカで花開いた

その後、光造形の技術はアメリカで大きく動き始めます。

チャールズ・ハルさんが光造形技術を発展させて特許を取得し、3D Systemsを設立。

1987年には、世界初の商用光造形装置「SLA-1」が登場しました。
*SLA-1:光で樹脂を固めながら立体物をつくる、世界初の商用3Dプリンター。

小玉さんが日本で特許を出願してから、わずか7年ほど後のことです。

そこから3Dプリンティング技術は発展を続けました。

試作品の製作だけでなく、現在では自動車、航空宇宙、医療など、さまざまな分野で使われています。

日本で生まれた発想が、アメリカで産業として花開いた。

なんとも考えさせられる歴史です。

小玉さんは、その後「弁理士」になった

そして、この物語にはもう一つ興味深い続きがあります。

小玉さんはその後、

弁理士になりました。

自ら世界に先駆けた技術を生み出しながら、その特許を権利として残せなかった人が、発明や技術を「知的財産」として守る仕事に就いたのです。

小玉さん自身、後年の講演で、海外での特許取得や、そこから生まれる新たな技術まで見据えて権利を守ることの重要性について、自らの経験をもとに語っています。

発明する力だけでは、世界は変わらない。

その価値を伝える。

権利として守る。

そして、社会で使われるところまで持っていく。

そこまでできて初めて、発明は「産業」になるのかもしれません。

日本が逃したものは、特許一つだけだったのか

この話を調べていて、私は少し複雑な気持ちになりました。

世界を変える技術の原点を、日本人が生み出していた。

それは日本人として、とても誇らしく感じます。

一方で、

日本が「技術大国」であることを世界に示す、大きなチャンスを逃してしまったのではないか。

そんな悔しさも感じました。

もちろん、一つの特許が成立していれば、その後の3Dプリンター産業がすべて日本のものになった、とまでは言えません。

ただ、この話には一つ、大きな問いが残ります。

なぜ、当時この技術の価値に気づくことができなかったのでしょうか。

小玉さんが、その可能性を十分に伝えきれなかったのかもしれません。

周囲が、まだ存在しない市場の大きさを想像できなかったのかもしれません。

あるいは単純に、時代を先取りしすぎていたのかもしれません。

今となっては、その答えを一つに決めることはできません。

だからこそ、私はこの話から、

優れた技術を生み出すことと、その技術の価値を見出すことは、同じくらい重要なのかもしれない。

そう感じました。

どれほど素晴らしいアイデアでも、誰かがその価値に気づかなければ、世の中には残らない。

これは発明だけの話ではないように思います。

会社の中にある小さなアイデア。

部下から出てきた提案。

まだ売れていない商品。

一見すると価値がないように見えるものの中に、未来を変える可能性が眠っていることもあるかもしれません。

もし皆様が、誰かから「これに価値があると思いますか?」と判断を求められることがあったら、

小玉秀男さんの「幻の特許」を思い出してみてください。

その中には、もしかすると、第二の3Dプリンターが含まれているかもしれません。

以上
「一流の思考ラボ」編集長でした。


参考・出典

・小玉秀男「3Dプリンタの開発(光造形法の発明経緯・技術評価・特許問題)」J-STAGE

・日本弁理士会「支援活動155号」

・計測自動制御学会「活発化する3Dプリンター(Additive Manufacturing)の概要とその動向」


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